『風が強い日のセレナーデ。』

T.S.の死の知らせが、微妙な余韻をぼくたちの周囲に残す。

きのうは小劇場の女優さんの山本さんと、ずっとこの知らせを発端に長電話していた。

彼女の電話を待っているあいだは、ずっと「文學界」2005年6月号のページを繰っていた。高橋源一郎の「ニッポンの小説」の第六回「それは、文学ではありません」など。

私に言わせれば、高橋源一郎、「おまえが、文学ではありません」だが。
集英社の新刊「ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ」など、誰が買うのだろうか。
私だったら、まずブックオフでも買わない。こちら。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087747573/249-0845350-8041140

そんな、独りの読書の時間を切り裂いて、山本さんが電話をかけてきてくれた。


T.S.の死の話をするが、そのあまりの呆気なさに、ふたりとも呆気に取られる。


彼女は、恋をするような女の子ではなかった。でも、ぼくと山本さんの結論は、だからダメだったんだ、ということだった。


人が生きるということは、つまりは恋をする、ということだ。

去年の10月に死んだ女の子が、いまごろになって死の知らせをぼくたちにするということは、よほど構ってもらいたかったのだろう。それはそれで、あの娘らしいや。

山本さんとの電話を切って、寝床に就いた。テレビでは、こんなニュースをやっていた。


土砂降りの雨のなか、記憶喪失のスーツの男が保護された。
その男は、グランドピアノの絵を描くことだけが、できた。
その男に、ピアノを与えたら、大変なピアニストだった。
だが、彼は、ピアノを弾くだけで、依然失語症である。


死人(どうぞ、「しびと」と発音して下さい。)とは、要するに、そのような存在である。


きょうもきちんと生きている貴方のための掲示板は、無論「過渡期ナイトBBS@暫定版」。こちらです。
http://free2.milkypal.net/f-bbs/BA-1/freedom.cgi?mm=k_night&mode=bk

人間てのは、冗談だが本気だが判らないギリギリのところで生きてるのが、面白いんじゃないかしら。

じゃ、みんな恋をしようぜ! 「俺はただおまえとやりたいだけ、やりたいだけっ!」

そう、それが人生さ。以上っ☆