『死紺亭名物SSWSレポート。』

どうだ、名物だ、娘さん。冥土の土産か伝家の宝刀だ。ちがうか。

SSWSとは何なのか。それは、こちらである。
http://www.marz.jp/ssws/

さて、以下は今年の松の内に行われた、火星人言語選手権の実況中継である。OK!!


『 拝啓、桂枝雀!あなたがこの世から去りずいぶん経ちますが、まだまだこの世は無理解な大衆に溢れ、お笑いごとではありません。』


はい。
2004年1月7日の新宿MARZにてSSWS(シンジュク・スポークン・ワーズ・スラム)第3次チャンピオントーナメントがありました。

このSLAMに関して、トーナメント的な内容を知りたい方は、公式サイトの最良の総評システムのupをお待ちください。
そもそも、準決勝までのすべての試合の結果が、3対4か4対3かという、数学的な確率の問題でさえ相当ありえない「勝ち負けの問えないスラム」だったので、あなたにあそこで起こったすべてを伝えるのは無理なのです。

あの夜、いちばん重要だった試合は、まちがいなくクライム6対鈴木陽一レモンの試合でした。
あれは試合の形式を借りた、日本語のHIPHOPという芸術に関する真摯な「対話」だったのです。

クライム6は日本語のHIPHOPへの愛を語りました。

中尊寺ゆつこが発掘し、発掘されたユウ・ザ・ロックが継承した、あの伝説のラジオ番組。それは1996年という西暦を身体で通過したBBOYならば、故郷とも言える経験です。
あのころは、ぼくだって、きみだって、誰だって、ノドから血が出るぐらい練習してたよ。そして日本のHIPHOPを認めさせてやるって、全身で前進してやるって、本気で思っていたし、いまも思っているのだ。

すくなくとも、クライム6はその愛を語りました。

そして、あろうことか、その原体験とも言えるあのラジオで自分の名前がコールされるところまで、スピーカーから聴かせてくれたのです。それは感動的な光景でした。
そのステージングはまさしく「HIPHOPの先生になる」と信州信濃の国のRAPマシーンと約束した男の「授業」だったのです。

対する後攻の鈴木陽一レモンは、あまりにも軽やかに「絶対に勝てないけれど、RAPで対戦しますっ!」とライミングしてくれたのです。

そして、お世辞ではなく、リアルでフレッシュな押韻が、彼の唇からは、溢れ出たのです。

それは「先生」の「授業」に対抗する「問題児」の姿勢そのものであり、それもまた紛うことなきBBOYのスタイルなのです。

ECDがメジャー・フォースからファーストアルバムを出した1992年、その音源のなかでは「日本のHIPHOPは歌謡曲にはならない。アイドル、歌詞おぼえてくれますか?」とメッセージを出していましたが、しかし、その2年後には「DA.YO.NE」という作品として、アイドルはリリックをおぼえてくれたのです。

おそらく鈴木陽一レモンは、世代的にこの時期を、思春期として当然のように、通過し、受容していて、従って「日本語のHIPHOP」から相対的に自由な距離を獲得しているのです。
そのこと自体に、肯定的な意味も否定的な意味もありません。「歴史」というものは、まさしくそういうものだからです。

日本語のHIPHOPの自明さを獲得するために格闘した世代であるクライム6のラップと、日本語のHIPHOPが自由として既にあった世代の鈴木陽一レモンのラップ。

それは、すでに「バトル」という意味さえ越えた「コミュニケーション」でした。
日本のHIPHOPというひとつの芸術様式を巡っての”歴史”と”現代”、そして”固有時”と”現在時”との「対話」。

結果として、旗1本の差で、鈴木陽一レモンが勝ちましたが、それは後者の優位性の証明ではまったくないでしょう。それもまた、歴史の本質だからです。

そう、日本のHIPHOPはまだまだ前進している過渡期なのです。

そして、松本人志の「笑い」を「ポエジー」として通過した、鈴木の現在の立ち位置が「詩人」である、というのも、90年代のお笑い暗黒期を過ごした・喜劇人である私には、また別の感無量なものがあります。
しかし、この「喜劇」というジャンルに関しても、「日本のHIPHOP」に既に見た対応する世代関係があるのは、読者諸賢にはお分かりでしょう。

この日の死紺亭のスラムの枠順が①番、鈴木くんの枠順が⑧番。これはクジによる偶然です。
しかし、象徴的に読み解けば、歴史はイチかバチか、ということなのです。それはすべての芸術が抱え込む「物語」という「宿命」なのです。

実は、私がこの日に朗読した作品「ナッシング・ゴー・ゴー・ウェスト 〜すべての笑いは西へ行く。〜」は、最初の一行から最後の一行まで、その物語の孕む残酷さを語ったものだったのです。
拙作から、引用します。

「拝啓、桂枝雀
あなたが この世から去り ずいぶん経ちますが
まだまだ この世は 無理解な大衆に溢れ
お笑いごとでは ありません。」

まさしく、私にとってのジョン・レノン桂枝雀師匠です。
そして、枝雀師匠の痛ましさは、そもそも「無理解」が前提の「大衆」へ、「理解」を求めたことにあるように思えてならないのです。

大衆があるがゆえに、すべての芸術は、流れるのです。

その「物語」の行方が見れる人間など、いません。人間は「神」ではないからです。

つぎの一行で、この奇妙なスラムの感想文を終わりにしましょう。

「すべての真実の『物語』は『神さまは僕たちに返事をしないのだ』で終わる。」

この日のSSWSは少なくとも「真実の物語」を見せてくれました。以上です。


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