劇評『死紺亭の眼』

伊トウ本式'05サマーツイスタ 『編集王
2005年8月4日ー7日 中野・劇場MOMO

土田世紀の漫画を原作に小劇場の演劇を造る。そのような事態からして既に示唆的ではあるが、これは教養自体がジャンクになった時代のビルドゥスクロマン(教養”演劇”)である。そのこと自体に否はない。むしろ否を言える資格のある人間のいないのが現代であると構えてみようか。しかし、それは切ない時代だ。

漫画はサブカルチャーではない。いや、サブカルチャーはない、と断言するほうが適切だろうか。上位と下位の区別がないのが本来的であり、副次的(サブ)なカルチャーと敢えて言うのであれば、それはアイロニーの世界でしか成立しない書法だろう。劇中描かれる出版業界内部の文芸部と漫画部の確執は、問いも答えもない争いだからこそ、切なさを増すだろう。

漫画家マンボ好塚と編集者疎井一郎は、それぞれ若い時代と老いてからの時代とで2人の役者によって演じられる。しかしマンボのアシスタントであり、また疎井に担当される若い漫画家でもある仙台角五郎はたった独りの役者で担われる。仙台こそはまさしく副次的(サブ)な存在であり、またその周囲への、そして「漫画」への愛は同性愛的(「さぶ」!?)ですらあるのだ。だが、仙台のように「サブ」に徹する以外のカルチャーの成立の仕方を、誰も知らないはずなのだ。

もしも文芸部に光があるとすれば、メインカルチャーである「人生」を仮にでも体現できるからのはずなのだが。